中 里 介 山

日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
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日本武術神妙記と
續日本武術神妙記





中里介山『大菩薩峠』の
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 中里介山(1885〜1944)は大長編小説『大菩薩峠』によってその名を知られる作家である。この小説は、近代日本における大衆文学の最高峰なのだが、なにせ長大な物語なので、最近では読み通す人も少なくなった。だがこれを読まなくとも、その主人公・机竜之介の名は聞いたことがあるという人もあろう。
 『大菩薩峠』を読めば、剣術の妙諦に通じた描写があり、作家の武術への傾倒の深さが知れる。その博識を裏打ちするネタが実は存在する。
 中里介山は、長年にわたり、閲覧した武術史料について、その武術家の逸話をメモをして整理していた。それが積もり積もって膨大な逸話集となったのだが、中里介山はそれらを作家の書斎に秘匿封印するのではなく、むしろ広く公開するために、『日本武術神妙記』(大菩薩峠刊行会・昭和八年)さらに『続日本武術神妙記』(隣人之友社・昭和十一年)と題して出版したのである。
 本書は武術家の逸話を批評抜きで蒐集羅列したものであり、むろん眉唾な話が多い。しかも、そこにはテクスト・クリティークもないのだが、皮肉なことに、それゆえにこそ、ある意味で利用範囲が広いと言えよう。
 大衆文芸には時代小説・剣豪小説というジャンルがあって、作家たちは小説のネタを求めるのだが、中里介山の日本武術神妙記2書は、剣豪小説を書いた昭和の作家たちの必携本、種本として利用された。これは、『武術叢書』(国書刊行会・大正四年)の刊行とともに、一つの事件であって、以来、小説家たちはネタ探しの苦労を忘れうるところとなった。類書には横山健堂『日本武道史』、宮本謙吾『近世剣客伝』というものがあり、また流泉小史の『剣豪秘話』『剣豪秘聞』が続くのだが、やはりこの中里介山の日本武術神妙記二書の影響は大きい。
 剣豪小説は同工異曲の作物が多いが、それもネタの出所が共通しているからである。したがって、この中里介山の日本武術神妙記2書により、作家たちのネタばらしをするのも一興であろう。
 しかし、この種の剣豪逸話はいづれにしても伝説の閾を出ない。それが解らないと、頓珍漢な対象イメージを抱懐してしまうもので、その点、中里介山も例外ではない。誰がエラいか、誰が強いか、という児戯に類することを、いい歳をしたオヤジがついつい等級づけをしてみたくなってしまう。
 中里介山によれば、「大家」は上泉和泉守と柳生但馬守、次点の「名人」は塚原卜伝、第三の「上手」は小野忠明と宮本武蔵、ということだそうである。むろんこれにしても、中里介山が勝手に抱いた対象イメージによるもので、そもそも根拠なる史料があやしいのである。よって、この等級づけもほんとうは汗顔ものなのである。
 有名な剣豪でも、その事蹟はほとんど確かではない。あるいは一流末孫の手になる先師礼賛を真に受けてしまうことはできない。誰がエラいか、誰が強いか、というバカなことはやらない方がよい。
 たとえば、宮本武蔵なんぞは、最も頻繁に語られる対象であり、史料も少なくないが、日本武術神妙記に蒐集された逸話には、残念ながら信憑性のあるものはほとんどない。武蔵伝説として形成成長したものばかりである。明らかに『丹治峯均筆記』を出所とする記事が少なからずあるが、その引用典拠は書かれていない。明治末の宮本武蔵遺跡顕彰会本『宮本武蔵』からの孫引きである。
 ようするに、武蔵に限らず本書所収の伝説は、いづれも取扱いに注意を要するのであって、不用意には使えないのである。とはいえ、ここに中里介山の日本武術神妙記、正続二書を掲載するのは、一つには、それぞれの剣豪武術家についてどんな伝説形成がなされたか、それを一覧しうる民俗資料として意義があるからである。また第二に、戦前の原本が入手困難、近年の河出版等新版が正確さに欠けるということから、資料として保全するには初版に遡って校訂覆刻する必要があったためである。
 以下に掲載するのは、『日本武術神妙記』『續日本武術神妙記』のそれぞれ初版本による本来のテクストである。一部漢字についてWeb表記上の制約から借字をしたが、あとは、unicodeで表示可能のはずだから、おおむね原本通りである。また原本のルビは〔  〕を附して拾っておいた。明らかな誤記・誤植については[  ]内に訂正をしている。
 次の目次のページでは記事項目が一覧できる。ここから順次ページを追っていただいてもよいし、この目次から、各項記事に直接ジャンプできるようにもしてある。活用されたい。
(武術神妙会)  


【中里介山】
 明治十八年、神奈川県西多摩郡羽村(現・東京都羽村市)に生れる。本名弥之助。小学校高等科卒業後上京、電話交換手を勤めたのち小学校代用教員となる。この間、キリスト教と社会主義に親近し、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』に寄稿するようになった。明治三十八年、白柳秀湖らと社会主義文芸雑誌『火鞭』を創刊、同誌に短編「笛吹川」を発表するなどしたが、同人と意見が合わず決裂、翌年都新聞に入社。以後、明治四十二年の小説「氷の花」(都新聞連載)をはじめ「高野の義人」「島原城」等小説作品を連載発表。
 大正二年に小説「大菩薩峠」の連載を都新聞紙上で開始した。この長大な小説は、その後掲載紙を変えて断続的に発表され、昭和十六年まで書き継がれた。この41巻に及ぶ大作は、ついに未完に終わった。
 介山は大正八年に都新聞を退社し、執筆活動を続けながら、生涯を通じて道場や私塾を運営するほか、『隣人之友』をはじめいくつかの雑誌の発行を手がけた。小説作品に、「夢殿」の聖徳太子、「黒谷夜話」の法然上人などあり、宗教家を描いた。中里介山は、大杉栄・北原白秋・武者小路実篤らと同年生れ、良くも悪くも大正文化の人であった。最後まで大乗仏教社会主義というべきポジションにあり、文学報国会への参加を忌避した。晩年にいたり自伝的文集「百姓弥之助の話」を書いている。
 昭和十九年四月二十八日歿、享年六十。法名修成院文宗介山居士。墓は生れ故郷、東京都羽村市の禅林寺にあり。



中里介山墓
羽村市羽東 禅林寺墓地


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